昭和45年6月10日月例祭


 神の大恩を知れば一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出きるぞと、それが今朝の御理解の焦点でござりました。神の大恩を知れば一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出きる、金光様のご信心を頂いてたくさんおられますけど、一年勝り代勝りのおかげになっている人達が非常に少ない、いやむしろ親の代には繁盛しておったけれど、子供の代では影もない形もないと言うようなのがある。ですからお道の信心を頂くと言うか分らせて頂くと言う事は、その神の大恩を知る事だと言うて言う訳です。話しを聞きますとこれは神の大恩と言う事をね、えー実感するんですけども、そのいかにもそれが実感のようでありますけど、それが形に現われてこない。その大恩に対する所謂むくゆる心、ね、大恩は知ると言う事はね、大恩を知ったらそれにむくいる心が当然出て来ると言う所までその大恩が分らなければいけません。ね、
ですからなる程所謂神恩報謝の生活が日々に出来る。ね、ここまで至ります時に、始めて一年勝り代勝りのおかげが頂けると言う事。話を聞けば分るんですよやはり、なる程私共の拝んどる神様が天地金乃神様天地の親神様と、天地の親神様のおかげを頂かなければもう本当に1秒間だってこの世に生きておる事さえ許されない。天地の親神様の大恩と言うものが分るじゃないかと、ね、それこそ息の差し入れに至るまで神様のおかげを受けているんだと言う事をです、ね、受けておるんだぞと言う事を理屈を聞きますと、そうだなと言う事が分かるんですけど、それだけではやはりおかげにならん。今日の大和さんの奥さんの前講でした、もう本当に今合楽で言うておる事の言わば合楽言葉とでも申しましょうかね、そう言う言葉を全部覚えておられるには驚きました。またそこに焦点を置いておられるその精進しておられる事にもあたくしはさすがに大和さんだな、いやご主人の方、ね、始めの間は足手まといであった自分自分でも言っておられますように、主人の足手まといどころかこの頃は主人と共々に信心がでけるようになったと、言う事を話しておられます、中にね、誰でも家庭の不和と言ったようなものを願うものはありません。仲良う睦まじゅう行きたいと言うものは持っておる、けれどもね信心をさせて頂くようになって、少しばかり修行させて頂くようにならせて頂くようにならせて頂きましたら、ね、家庭に不和のないと言う事がです一番一番信心をさせて頂くからには大切な事だと言う事が分かって来たと言うんです。
やっぱり一番大切な事だと分かって来た。ね、拝み合う毎日本当に家庭の円満と言う事がです、ね、大切であると言う事が、信心をさせて頂くようになっていよいよ一番大切な事であると言う事が分かって来た、さあーその一番大切な事と分かったのですから、そこん所の取り組み方が全然違って来た夫婦の中親子の中、ね、あたくし共日々信心の稽古させて頂いておる者はもう合言葉のようにおくり合せを頂いてと言う事をあまりに平気に使うけど、たまたま土地の小学校の校長先生のご挨拶の中に、皆さんこんにちは万事におくり合せを頂かれて今日ご参集を頂きました事のご挨拶であった時にです、まあなんと送り合わせと言う事の素晴らしい事であろうかと感じたと言われております。合楽ではそう感じなかった事がです、そりゃ校長先生の挨拶でしょうまたみんなもそれ挨拶で聞いた、所がです、ね、信心させて頂くようになり少しばかり修行させて頂く事になってまいりましたら、そのおくり合せを頂かなければ今日私はここに出席する事も出来ないと言う事、主人がどうか言うたらお年よりがどうか言われたらもう出来なかった所を、主人もその事を認めておられお母さんもはよ行って来なさいと言うような雰囲気の中に自分が送り合わせを頂いたここに出席しておると言う事がです、はあー本当おくり合せを頂かなければ、と言うその校長先生の言葉でそーに感動したと言う事を話しておられる。
ね、信心させて頂くお互いがおかげを頂きましたおかげを頂きました。と言うのがあまりにもその日々普段に使っておりますから、ふんだんに、本当におかげを頂きましたと言う実感がそこにあったらです、不平不足と言うものはなくなってくるほどしだと思うんです。ね、今日もこうやってお繰り合わせを頂いたからこそ、神様のお許しを頂いたからこそ、今日ここにご参拝のおかげを頂けておるんだと、分らせて頂いたら有難さがまた一段いそがしかとをほうからかして今日は参って来た、もう私が参って来たという所にはね、そこに私は信心の喜びと言うのは与えられないと思うですね。信心には必ず修行が必要であると言う事をまた強調しておられます。ただ今私が申します神の大恩と言う事を、話しを聞けば一通りはすぐ分る、
昨日一昨日昨日の晩です、御祈念の半ばでしたか電気がこの辺全部停電いたしましてね、もう随分10時頃まで消えました。消え取りました。真っ暗な中に本当に母が真っ暗な中に言っとるんですよ、本当に目が借り物と言うのが分る、本当にえー昼いわば電気の中であったりしますと借り物である事の御礼を申しあげんけども、借り物と言う事が分るのちコタツの中でいいよります。それだけじゃありませんもう総てが借り物です。神様の借り物だからその暗い事になって見て始めて実感をすると言うのではなくて、修行をさせて頂いて分る道があるのですから、ね、今日調度私がここ立たせて頂く時間ギリギリの所で、久留米の佐田さん親子がここでお届けされる。今朝方からお夢を頂いたと言うお夢のお届けをなさっておられます。だからついいっぱいもう時間でしたから、答えは後でねと言うてから立ちましたんですけどね、その時咄嗟に頂きましたのがですね、松と言う字を大きく頂いたんです。木へんに公と書く。しかも大きく頂いた。例えばお夢の内容と言うのがですね、
内田美恵子さん内田さんと会う所から夢が始まる、内田さんがあんたんとこ最近こうこうだと言う事色々言われる中にです、右と願えば左左と願えば右いよいよ修行の真っ最中桃源と言う事を言われる。そう言うような所だと言うような内容のいっぱいあるお夢でした。それに対して神様はこの松と言う字をくださった。皆さんもご承知のようにもうそれこそ一家を挙げてあのような熱心な信心が出来ておられます。また本当に神様の働きと言うのは、もう本当に筆舌につくせんちゃこの事本当に神様の働きの素晴らしさに只只有難い勿体無いと言う生活を毎日送っておられる。問題はいつもある、あるけどもその有難い勿体無いから差し控えて貰うと結局は有難い事になってしまうと言われるいつも。けれどもこのここんとこ思わして貰えば問題が問題ではないと言う訳です。そう言う例えば信心のおかげを頂いておるこれはあたくし共が、体験させて頂く例えば神様がお夢の中にでもお取り払いを下さるお夢の中にでもお試しを下さる、わたくし共はこの神様は有難いですね例えば難儀な事にでもあわなければ分らん、なる程電気が消えて見なければ??分りませんからね、分りたい分りたいと言う願いの中にはやはり真っ暗な事がありますけどね、だから真っ暗にならんで済むようなおかげ、言うなら夢の中で真っ黒なったおかげ、ね、夢の中で今まで真っ黒なるようなお夢を頂いた時に、夢の中でですどっこいとそれを受けさせて頂いておる、
ね、もしどう言う事があっても、神様一途で例えうならあー家蔵財産例えば無くしてしまって例えば株なんかでも、高うなっとる時には売っとる、買うた時には下がっとるち言うたふうな所を通っとるち言ったような内容があったんですお夢の中に、ね、うなら右と願っても左、左と願っても右と言うような例えば事の場合でもそれを神様のご神意だご都合だと、ね、例えばギリギリの時には、ね、神様にお任せしきった信心がいよいよ出来る時だと言うくらいな度胸がね、言うなら信心の度胸が出来させて頂いてそこん所でおかげの頂ける信心、
こりゃあたくしがもう青年時代に頂いた●お夢んなかにね、二日間続けて頂いたお夢がある。わたくし大体横着ですからね、わたくしの所でね、なんか当時の与太者と言ってましたね、その若い与太者がゾロゾロ出て来て私を取り巻いたですね、そしてもう今にも私にその私を袋叩きにしようとしますから待て待てチョット待て、私は意味が分らない、ね、話しをすれば分るじゃないか、とまあ私が雄弁に一生懸命それ達を説き伏せ夢で目が覚めた●そしたらね又翌日だったかその夢の続きなんです。やっぱりそんな事があっているんです。それでわたし夢の後で言ってるんです思ってるんですよ、本当にその自分がね言い訳をしてねもう叩かれまいとしてね、チョット待て、と言うてまあその自分の雄弁に任せて相手の叩こうとしている奴に言うて聞かせよう治めようとしておるんですね。でそうやってなんとはなしに寂しい夢であった事でありましたが、その次ぎにはやっぱり同じような場面でね、もう私を取りまわして今にも袋叩きにしようと言う訳なんです。その時にね私くしがね生神金光大神様ーち言うてその皆んなのこう取り巻かれている中でわたくしが屈みこんで、御祈念を始めたらあーこの人達が、蜘蛛の子を散らすように散って行くと言うお夢ねんです。
昨日から頂いた今日から又頂いた事そん時には信心は分らんでも、熱心にお参りはだけはさせて貰っていた。ね、ですからやっぱ信心はこれでいかないかんなーと、ね、赤面弁慶になって言い訳する事もどうする事もいらん、もういよいよん時にはどうこうもいらん、生神金光大神様ならと言わばどんずわって御祈念するくらいな言うなら叩くなら叩けと言う腹が出けると言う事が信心だと思うた事がありますがね、私は夢の中でもそう言うお試しを受けたりお取り払いを受けたりする事ある。ね、それこそ夢のなかで手術までして貰った人があるんですからね、福岡の松岡さんなんかそうです。ね、目の中に入っている空気銃の玉を神様1週間目にはこれを取り出して下さったんですから、本当に夢の中で取り出して下さった、それっきりおかげを受けておると言う事実があるぐらいですから、ね、夢夢でもあでや疎かに見るなと仰っておられますから、夢の中にでも御取り払い自分と言うものがハッキリみんながよく出て来るもんです。ね、ですからなる程その佐田さんに対するとこのお夢の答えは松の字になれと言う事は、心を大きく持てと言う事、公心を公や事の事に向けよ佐田一家の繁盛じゃいかんぞ、ね、それこそ世のお役に立たせて頂きたい世のお役にたちたいと言う祈りをね、いよいよ持たせて頂く信心になれよと言う事、ね、神様の願いに答えると言う信心そう言うおかげを頂いたら、そう言う山場が例えば近づいてきておっても、内田峰子って内の中に峠と言う事になって来る場合でも余裕でしょう。ね、けれどもね、その受け心さえどっこいと言う心さえ出け取れば、もう神様はもう試される必要はなくなって来る訳ですよね、そうでしょうが、神様は大好きです有り難いですと言うとるでしょう、だから本当にどのくらい好きかどのくらい大好きか有り難いかを試される必要を神様は感じられるんですね。
次のおかげを下さる事の為には、ね、そこん所を私共はお試しとこう言う、それを例えば明日一家勢を揃えた信心をさして頂きよんなさりゃもうそのお試しを下さるその場すらがないくらいに、まあ言うなら目の詰まった信心をさして頂いておるのですから、神様が夢の中にもそしてお働き下さっておると言う事感じた。松の木の信心がでけておるかどうか、心を大きく持て、どう言う事があってもどっこいと受けられる心、だけではない、心が公の事に向かって祈られておる、ね、今朝の例えば神の大恩を知れば一年勝り代勝り、おかげが受けられるぞと言うておられるんですから、神の大恩をいよいよ分からせて頂きたい。所がねこれはえーよく言う事ですけどね、信者方が集まりますともうとにかく口を開けば親先生のおかげで親先生のおかげでと言うような信者がたくさんおる所の教会ならもう必ずご比礼はたっとる時だ、そりゃそうですね。親先生の徳が高いからもうお願いをすりゃおかげを頂く、親先生のお導きによって段々おかげを頂く。だから親先生のおかげで親先生のおかげでと言う訳なのです。親先生のおかげと言う信者がたくさんでけて来ると、もう教会はいよいよご比礼が輝くと言われる。所が親先生が亡くなると、親先生のおかげでと言うのが亡くなるから、また自分の信心おかげまでなくなってしまう。それではね先生の大恩が分かっただけではいかん、先生のその信心を通して神の大恩が分からなければいけないと言う事です。
だからね、例えばまあ教会の中で先生の神様の、ご比礼のたたん所の信者に限ってですよ、もう神様のおかげで神様のおかげでと言いよる。うん、それで神様のおかげがわかっとるかち言えばいっちょんわかっとらん。ね、わたしだん先生に参りよるとじゃなかけん神様に参りよるとじゃけん、もう先生うちの先生ばかりは愛想こそなかけん、すわってござらん方がよか(笑い)もう今日はよかった座ってなかったけんでち言うてから、いやそういう教会が実は案外多いとですよ。もうあたしだん先生に参りよるとじゃなかけんで神様に参りよるとじゃけん、そう言う教会はもう先生のおかげで絶対言わん、もう神様のおかげで神様のおかげで、そりきほんに神様のおかげが分っとるかち言うたらいっちょんわかっとらん、
と言うような事、ね、だからそう言う信心からやぱり親先生のおかげでと言えれる所までおかげを受けなきゃいけない。この辺は段々大分それが出来た、昨日の夕方久保山さん達が万国から京都のお芝居じゃなかった、(笑い)お商売の事そいから東京のお父さんの所へまあ調度この間の一日の月次祭の晩にたったそして夕べ帰って来た。それで所謂皆のとこへ寄ったち言う訳、ね、それでまあおかげを頂いてあちらで大きな自家用車を買うとるから、それで三日間あっちこっち京都見物に行かして頂いた。もう実るが口を開いて言う事は親先生有難うございます、そうでしょうあの人の手紙やりますともう3枚なら3枚便箋にいろんな事書いてくる、その中にもう親先生がどれだけ出て来るか分らん。親先生有難うございます親先生有難うございますと書いてある。だからもう本当にそのあの人達夫婦が言うとりますち、親先生がいつ東京へおいでて頂くかわからんけども必ずおいでて頂くだろうが、その時には夫婦で何処と何処と何処をご案内させて頂く、そういうプランまで作ってまあ言うとりますとこう言うんです。
(笑い)ですからね、そう言う意味で親先生のおかげでとか親先生を大事にするとか、言う事はもうこれはあたくし自身あたくしが大坪総一郎として、思うなら勿体無い程皆さんが親先生のおかげでと言う事を言うて下さる、ね、けれどもねそれだけでは神の大恩がわかったと言う事じゃないのです。だからその大恩がわかると言う事はその先生が頂いてござる信心を頂くと言う事だと、いうな今朝からの御理解でしたけどね。修行しなければ分らんそれけんち言うてなら、佐田さんが頂いているなにかその目の前が真っ暗な事が起こってこなければ、あーわからんと言うのではあまりにも述ない。そこで神様は夢の中でも一生懸命の信心が出来ている中でも、試験をして下さるその試験に見事パスすると、そこはそう言う事は通らんで良い、だから果たして皆さんああたがたの心の中にいよいよ佐田一家の事じゃない、それこそ明日十三日会のお話しがあっとりましたがね、神様の願いが成就する日として合楽では十三日と言う日をとにかく大事にする、ね、もうこの一日だけはもう一家中が例えば店をたたんでも、ね、その神様の心に答えようと言う稽古をさして貰う一日、そう言うだからどうぞ皆さんが集まって下さると、焼き物石でとにかく草取りでもばたばた片付く、あとからゆっくり共励会も出来ると言うのではなくてです、ね、本当にそうしなければおられない信心がね、出来なければ駄目なんだと言う事です。ね、そう言う意味で十三日会がいきいきとしてここでの信心共励、えー神様の言わば心に沿い奉る信心の稽古の共励期間にならなければならんと思うですね。
そう言うあたくしは中からです、神様のおかげをわからして貰う神の大恩が分る。真っ暗になって言わば電気の有難さが分ったり、自分の目が自分でない借り物であると言う事が、分ったんではね、やはりきついですから、ね、そこんところを例えばひとつおかげを頂いていける信心にならせて頂かなければいけん。えー大和さんの奥さんが言うておられますように、信心にはねもうとにかく円満で行くと言う事がまず何と言うても第一だと言う事が分った、信心によってその事が分った、ね、家庭に不和のなきが元なり、いよいよ今月の信心の焦点がねいよいよ楽しゅうね、おかげを頂いて行こう、仲良くして行きたい、ね、けどもこっちがしたいと思うても向こうがそっぽ向いておる、仲良く出来ない、ね、そこでどういうような在り方になったら拝みあえるような信心になっていけるか、ね仲よう楽しゅうそして有難く、今日あたくし午後の奉仕をしてましたら、調度手洗い鉢の所でお参りがあってるような気配がつらつら?と聞こえて来る、小さい子供の声で「ママー」ち言うてから笑いよる、とても可愛い声で若いけれども奥さんが子供連れで参って来たなーと思いよった、何遍もそのお母さんがぐずぐずして子供が来てから??ママち言うておらびよるとがとても可愛らしゅう聞こえて来た、ね、若い綺麗な奥さんじゃろうと想像しながら私思うて待たして頂いてましたら、ここへ出て見えましたのはわたくしが思うておるとは、もう反した人の態度であった(笑い)いや若くて美しい事ではあるけれども、そのなんて言うのかな、もうほんとにねなんて言うんでしょうか、もう本当生活に疲れ果てたと言う感じの人でした。そしてここで涙流して言われる事は、先生生きる事がイヤになりましたと、
あたくしのようなものでも助かるでしょうかち、ね、もうここで先生があたくしのような者は助からんち言われたなら、もう本当にかえりにゃ死なっしゃるかも分らんち言うごとある寂しい格好でした。ね、あたくしその方にいろいろと話しさせて頂いた。今月の焦点の話しをさせて頂いた。ね、とにかくまあ少しはとにかくあした参っておいでと、近い所ですから帰したんですけどもその方が言われる、ね、結婚した恋愛結婚ですからもうとにかく楽しい毎日だったとこう言う訳、ね、所謂なかようたのしゅううまくいっとった。所がね悲しい事には有難いと言う事を知らなかった、ね、これは信心と言うものはねあたしゃその結局有難くならせて頂く稽古なんですからね、要約すれば、ね、ですから例えばなんか嬉しい時には有難うございますと言うのは信心では有難いじゃないです。だからとにかく有難いなーと言えれる心が信心で言う有難いのです。その有難いだから仲ようたのしゅうまでは頂いておったけれども話しを聞くとなる程大変な難儀の中にあります、そして生きるいわば希望を失う程しの事に直面しておる、もうそれこそ生活面でさいなまれた姿や、ね、あたしゃそん時思いましたですね、あの最近はやっぱり子供その何ですか、その私共年配と若い人の気持ちは、あー全然違います。
今頃は。今日も杉さんがお夢頂いとるとに、若先生があー雑林の中を通って一緒にお供して行ってる、その若先生がはいてござるその袴と言うのが、調度ミニスカートのように短い袴をはいていた。(笑い)だからね私達から見ると、ほんにそげなもんばはいてからちょいとおかしかち言うてから、言いますよね、けれどもね言うならばそれが当たり前なんだからね若い人には、いやむしろそれが流行の先端なのだから、若先生が信心最近例えばあたしの生き方で言うなら目に余るような事もあるけれどね、けれどもそれをね先生は先生なりにキチット現代の信心と言うか、そう言う事をその分からせて頂きながら、雑木林と言う事はやはり丸い中を歩いている感じでしたがね、もうこれがもしあたくしの信心がなかったらです、もう親子の断絶が起こるですよ。なんちゅう格好かお前そげな格好してから、ミニスカートんごと袴どんはいてからち(笑い)
ね、所が私はおかげ頂いてねそこん所わからして頂いてとるからこりゃ末永さんだから若先生があーだからと言うてね、あんた方はここでの信心頂こうとして始めようとじゃろがのて、だからここでの信心頂きたいなら、若先生の言うたりしたりじゃなくて、私の言うたりしたりチョット工夫かもしれん、けれども言うなら??だからえりどんなら信心を取らにゃいけん、あたしの真似をしちゃいけんよと、言うて末永さんに申した事でしたけどね、ほんとに例えば親子の間の事でもですね、現代の人の考え方とわたくしの考え方はそのようにちごうてきてるんですから、お前が親の言う事聞かんと言うたら、そこから断絶が始まってくるんです。ね、精進と言うのはそこん所が有り難い、でも出来ないけれどもあたくしは今日見えたねそのママち言うてからほんに可愛いらしい子供はほんに可愛いらしかった。やっぱ恋愛結婚さっしゃるけんで若い時は美しゅうかったろうけんで、もう本当に貧すりゃ鈍するといいますか、もう本当に??それこそもう死ぬ生きる楽しみを無くしたち言うぐらいですか、そげん言いながらでもやっぱ子供はチョコレートどん出して食べようですもん(大笑い)いやほんなこつ、
あたしゃほんなこつ何かあげようかと思ったら、家内がそこん箱から出してやらっしゃったらチョコレート(大笑い)いや本当ですよ。そりけんわたしゃね本当仲良くいく為にはね、教祖様が仰っておられますように、段々おかげを頂いて人から生神さまと言われる程しになられた家庭の中でね、もうあなたこなたと呼べと言うておられますね。ね、家族の人達に、やっぱ言葉使いが悪かったんでしょうね、岡山弁でね、(笑い)そりけんでもう連れの事やら生神様ち人から言われるからお前どんそげな言葉使うならおかしかち、と言う訳でもなかろうばってん、あなたこなた言う風に、御伝記に残っております。だからねやはりそのそん時そん時の、ね、状態でね言葉遣いも変えていかないかんです。ほんでわたくし一辺福岡の吉木武博先生からお話し頂いた事あるんですけど、そうだなとあたくし思うた事がある、なんか台湾で大変成功された方のお話しだった。それがね始めの間屑拾いさんだった、それでその始めて難儀な事で難儀をしてからね、その夫婦喧嘩が絶え間ない訳ですよ。
ね、絶え間なく喧嘩する訳それでねその先生が仰った、あんたんとこのお父さんは屑ひらい、だから屑ひらいと思うとるけんでいかん、だからね主人に立派になって貰いたいなら旦那様旦那様と立て抜いていかないかん。そんな言葉どん使うちゃならんよち、言うてその教えられた訳です。成る程と思う帰った、ご主人の帰って来るのを待ち構えて、玄関と言う玄関はなかばってん(笑い)帰ったぞち、帰ってきなさった天秤棒かついでから、そいで奥さんが玄関のとこで三つ指ついて「旦那様お帰りなさいませ」とやった。「こんやつばかりは人をばかにしてからち??」(大爆笑)あたくしは本当ですね今日そのママち聞いてからそんなもの感じたんですよ、ね、何がママかち私は思いました(大爆笑)ほんなこつ、ね、それこそかあちゃんでもちょうどよいじゃないか、(大爆笑)あんまり言葉遣いからまあまあでいきよるけんでこんな事になってしまう。いやいや本当そんなもの感じましたよ。(笑い)だからね信心させて貰い成る程成る程心がやさしゅう有り難うなって行きますからね、
成る程言う事にもケンがなくなって来る。まん丸なって来るけどです、やぱり分相応の言葉遣いでいいと思うね。うん、でないとぜんぶはじき廻されるかえって、(笑い)だからね本当にその家庭の和と言う事をね、いよいよあたくし共が今年の今月の焦点としておかげ頂かして貰いますから、それでもねこれほどしのおかげを頂いてこれほど和賀心をこう習いながら、これほど和賀心和賀心と頂きながらです、家でねそれ以下の言葉使いよるなら改まらないかんです。もう聞いちゃおられん、向こうからあれが信心しよざる家庭じゃろかと言わざる例えばその家ん中でね、ぶっすりがぶっすりがとね汚い言葉でののしりおうたりしとるごとはいけませんよ。
ね、ですからねそう言う家庭の中にそう言う雰囲気をかもしていけれるやはりなんと言うても自分の心が第一なのですから、ね、自分の心の中から本当に和らいだおかげを頂かしてもろうて、大和さんさんじゃないけど信心で一番大切な事は、家庭に不和のない事だと分からないかんのです。それが分かったらですねおのづと言葉使いでも??こらっち言うたっちゃ、こらっち言われん事なってくるやっぱ、ね、ぬしどんがち言うとでもですよね、ぬしどんち言われん。ぬしどんち言うのはこの辺の言葉ですけどね。
ですからほんとですよ。福岡の方達やら見えますと私が悪か言葉使うもんじゃけ真似して、安東さん達なんかまるで椛目言葉になっとんなさる、わざわざ椛目言葉にならんでもいいとにやっぱね、福岡の言葉でも上品な言葉あるからですね。ほうが私はいいと思いますがね、ですからねそう言う所に例えば足りない所は足して行く、ね、かげておる所は足して行く。あたしゃそういう事も考えなければいけません。段々信心させて頂きしらーにねしらーに言葉遣いもようなったちいかんです。信心するもんじゃき一遍に変わったちいかんけん、心の有り難なりに従ってです、そう言うような例えば家庭での言うなら物腰言葉遣い一つに至るまでが変わって来るようなおかげを頂いて、いよいよ仲良うね楽しゅうしかも有難うと言う所へ、今日見える方の話しを聞いて、ね、なるほど都合のよか時にゃとても楽しゅうて仲が良かったけれど、有難いと言うものがなかったその有難いと言うものを目指して私共は信心させて頂いておりますから、仲ようと楽しゅうはいつでも出来ると言う体制がでけとらなならん筈なのです。
ね、ですから仲よう楽しゅうあたしゃその根本になる、有難いと言うものをです高めて行くに従ってそこんとこの度合いを又密になっていけんと思うですね。どうぞ。   


井出一憲が打ちました。